バーチャリティとリアリティ

山本 幾生


1.はじめに

J.L.オースティンによれば、例えば「ピンク」という形容詞は何かの性質を特記しているのに対して、同じ形容詞でも「リアル」は「ピンク」と異なり、あるものの性格づけに寄与するのではなく、リアルでない可能性を排除することにその機能がある(1)。この指摘からすると、今日のコンピュータ時代を端的に表している「バーチャル・リアリティ(Virtual Reality)」「仮想現実」という言葉は、その語の組み合わせから見て、「リアリティ」の問題にきわめて示唆に富んだ表現ではないだろうか。

 「バーチャル」は、「仮想」と訳されているが、これ以外に「事実上」とか「実質的」という意味もある。これらに応じて、バーチャル・リアリティは、一方において仮想的なものとして、リアルなものから排除されるべきであるのに対して、他方、実質的という意味において、リアルなものと同じ機能を果たすのである。かくして、排除されるべき「仮想」は、「実質的」に「実在(現実)」の中に取り込まれていく。これが仮想現実、バーチャル・リアリティの世界である。ここから、実在性に関して哲学で問題になってきた外界の実在性の問題を振り返るとき、ショーペンハウアーが今日の世界の中で占める位置、そして将来的な意義が浮かび上がってくるのではないだろうか。

 

2.デカルトからショーペンハウアーへの転換

デカルトが「我」の自己確実性に対して物体の存在を問題にしたとき、モノ(res)としての物体のモノ性(realitas:実在性)は、物体から我に投射される観念のモノ性(realitas obiectiva)を巡って問題にされた(2)。これに対して、観念がモノ性をもつのであれば、そのモノ性を我に引き起こしたモノ(物体)は、その原因として、我に非依存的で、それ自体で存在していることになる。ここでは、<外界の実在性の問題>は、モノのモノ性ひいては観念のモノ性を巡って、<物体の我への非依存性の問題>として展開されている。これに対してショーペンハウアーでは、因果関係は物体と我(主観)との間には適用されず、物体と物体との間、つまり、表象としての世界における個々の表象の間で成立する。かくして表象(物体)としての世界は、因果連関に即して相互に作用(wirken)する世界、つまり、「作用性/現実性(Wirklichkeit)」を本性とした世界となる。他方で、因果連関に取り込まれることなく、それ自体で存在するものとして、意志が挙げられ、生への意志が実在性の核とされる(3)。かくして互いに作用する表象(物質)は、意志から実在性を与えられることによって、意志的な作用、つまり実在的な現実となる。ここでは<外界の実在性の問題>は、<物体の我への非依存性の問題>ではなく、表象(物体)が夢と同じであるのか、それとも実在的(意志的)であるのかという、<表象(物質)の意志的作用性(現実性)の問題>となり、問題の枠組み自体が転換する。

 

3.リアリティ(意志)とバーチャリティ(表象)としての世界

今日のバーチャル・リアリティの世界は、このような枠組みの転換によって初めて、その軌道が敷かれたと見ることができよう。デカルトの枠組みの中では、観念がモノ的(実在的)だからそれを引き起こした原因であるモノ(物体)は実在する、と語られた。これに対して、観念(表象)がたとえモノ的(実在的)でなく単なる仮想的であっても、作用性(現実性)を持つが故に実在的(現実)だという、バーチャル・リアリティに通じる実在性概念は、ショーペンハウアーによって転換された枠組みの中でこそ有意味に語られるからである。

 例えば、少年期に読んだイソップ物語が子供の人格形成に大きく作用することがあろう。その物語はたとえ虚構だとしても、子供にとって現実的であり実在的なのである。もちろんここでは、虚構と実在は区別された上で、虚構がその子供にとって実在性(作用性)をもつ。虚構と実在との間には、主観と独立のモノか否か、あるいは物質的か否か、というような質的な区別がある。しかし今日、作用性としての現実性が前面に押し出てくるとき、このような質的な区別は作用の強弱という量的差異に取って代わられ、これによって物質は実在性を減じ、その結果、「実」と「虚」の一種の逆転現象が生じているのではないか。かつて実在的客観とされた物体は今や商品として氾濫し、却って作用することなく「空虚」になり、テレビ、宣伝など、我々を消費へ駆り立てる虚飾こそ、強く作用する「実在/現実」なのである。今日ではさらに、虚空間に実在性を産出することを目指して拍車が掛かっている。その典型がバーチャル・リアリティであろう。ここでは、従来の対立からすれば虚構とか仮想と見なされていたものが、コンピュータ処理を通して、我々の五感に直接的に作用し、実質的に実在的客観と同等に機能する。仮想は実在の世界に取り込まれ、実在の世界はますます拡張される。ビルの一室で森林浴をし、地球の裏側の人と握手を交わす。感覚に訴えられる物体とは一線を画して想像力に支えられた物語の虚構性は、ここでは、まさしく五感に作用する仮想現実へ変貌を遂げる。

 将来へ向けて突き進んでいる世界は、ショーペンハウアーから見れば、まさしく生への意志が実在性の核となって実在性を産出する世界であると言えるのではないか。それは、彼が方向転換させた意志的作用性の世界の延長線上にある世界であり、質的区別から作用の量的差異へ転換することによって生じた「リアリティ(意志)とバーチャリティ(表象)としての世界」ではないだろうか。

 

4.外界の実在性の問題から、ものの不在性の問題へ

このように捉えて初めて、ショーペンハウアー哲学の将来を問うことができるのではないか。すなわち,今日のこの世界のあり方に何か問題が生じたとき、その解法の方向性を、その転換点となった彼の哲学に求めることができるのではないか。

 まず、基本的な問いがある。この世界はどこを目指して突き進んでいるのか。これに対して個々の現象、例えば科学技術の進歩や地球規模の生態系などの変化を予測しながら答えることもできよう。しかし、生への意志それ自身には目標も目的もない。個々の現象に対処しても、この世界が向かうべき目標や目的はない。この地点から見たとき、まず@、意志的作用の世界の運行は、全体的にも個々の現象に関しても、我々の個的あるいは集団的な意欲によって制御できないものがある(地震、核分裂、犯罪、等)。次にA、もし制御できる現象があったとしても、この世界が向かうべき目標が欠けている以上、各々の制御は最終目標を欠いたものとなり、かくして各々の制御の間で争いが生じ、制御ようと意欲すること自体が無意味になる。ここでは、世界は虚無的世界へ転じる。Bそれでも生への意志として意欲せざるを得ないとき、@へ戻り、果てのない循環が続く。ここでは、目的を持たない同じ一つの意志と、個的に現れる意欲との間に、したがって各々の意欲と間に、ある種のずれ・争いが生じ、かくして、実在と虚無が反転的に繰り返される世界が出現する。これに対してC、このような反転的世界の中での循環を脱却するには、生への意志それ自身が否定されなければならない。意志の否定である。以上が、ショーペンハウアーが『意志と表象としての世界』で描いた世界ではないだろうか。

 では、今日の「リアリティとバーチャリティとしての世界」では、どのような問い生じているのだろうか。我々はどこから来てどこへ行くのか、この世界はどこを目指しているのか、といった、目標や目的を尋ねる問いは、反転的世界の中を漂っており、問いは、意志的作用性にかかわる問いへ変転し、とりわけ作用性の強弱と質が問題となる。ここでは、作用性の強度と拡張にこそ、実在性が求められる。バーチャル・リアリティは五感を総動員し、実在的世界を拡張する。しかしこれと対照的に、かつての実在的な世界はこの世界から抜け落ちて行く。森林へ行かなくても、五感に刺激を与えれば森林浴は可能となる。ここでは、実在の森林は必要ない。バーチャル・リアリティの世界とは、バークリーに模して言えば、「実在するとは、五感(脳)がより強く刺激(作用)を受けることである」という世界である。<森林>は<刺激としての森林浴>の背後に隠れ、刺激の外部世界として感覚に閉ざされ、この世界から抜け去っていくのである。

 かくしてここに一つの問いが生じる。すなわち、外界は実在するのか、という問いがこれまでとは違った意味で切実になる。これはもはや<外界の主観への非依存性>の問題でも、<意志的な作用性>の問題でもなく、いわば〈外界の欠落〉あるいは〈ものの不在〉の問題である。つまり、かつて実在的とされてきた〈もの〉や〈外界〉は、その実在性がバーチャル・リアリティに取って代わられることによって、実質的に不必要になり、かくしてこの世界から抜け落ちていくのである。

 

5.ショーペンハウアー哲学のアクチュアリティ

ものの欠落あるいは不在は、結局、オースティンが分析した「リアル」の機能から必然的に生じてきたとも見ることができよう。「リアル」の機能が「リアルでないもの」を排除することにあるなら、たとえ仮想であっても実質的にリアルなものが五感に直接的に、より強く、作用することによって、これまでリアルとみなされてきたものは、却って作用しないもの、あるいは相対的に作用の弱くなったものとなり、かくしてリアルでないものとして排除されることになり得るからである。

 外界の実在性に関してショーペンハウアーが転換した軌道の上で、かくして、今日の世界、バーチャル・リアリティの世界の中で、外界の欠落の問題、ものの不在の問題が生じてくる。そうであるなら、この問題の解決の糸口も、彼の哲学の中に見出すことができるのではないか。一つには、「意志的作用性」に対する「意志の否定」を今日の世界の中に置き入れて改めてその真価を問うという道、そして、仮想という一つの表象が事実上は実在として作用するという、いわば存在論的な事柄に対して、そのように実在として機能しているものを仮想として認識するという、認識論上の逆転をするという道である。

 以上の二つの道を我々が今日という時代の中でいかに考えるか、この点にショーペンハウアー哲学の将来が掛かっていると言えるのではないか。

 

(1)J.L.Austin, Sense and Sensibilia, Oxford, 1962, p.70.

(2)Descartes, Oeuvres 7(ed.Adam & Tannery), p.40,161,165.

(3)Schopenhauer, Sämtliche Werke 3(hrsg.A.Huebscher), S.400.